なぜ霧降高原に行きたかったのか
僕が霧降高原に惹かれた理由は、ただ「絶景を見たいから」じゃない。
標高1600mの場所にある1445段の階段を登りきった先に見える景色には、
“天とつながる瞬間”があると聞いた。
そういう話を聞くと、どうしても身体が反応するんですよね。
「そこに行ったら何か受け取れる気がする」──そんな直感。
僕にとって自然の中に身を置くことは、ただのリフレッシュじゃない。
自律神経の調整や心のデトックス、
そして“天との対話”みたいなものが、いつもそこにある。
日光市の霧降高原は、まさにそんな対話ができる場所。
朝日はもちろん、雲が流れ込む時間帯も幻想的で、
「地上」と「天」の境界が溶けていくような感覚になる。
この場所で何かを感じたくて、ずっとタイミングをうかがっていた。
でも、行こうと思っていた週はずっと雨。
天気予報を何度見ても「曇り時々雨」。
それでも僕の中には、“行く”って決まっていた。
願いは、いつも届く。晴れ間がくれた合図
「行ける気がする」──そう思ったのは、夕方のほんの一瞬。
雨が続いていた空に、わずかに光が差し込んだ。
その瞬間、僕の中で何かがカチッと切り替わった。
「今だ」。
気づいたらもう車に乗っていて、
霧降高原へ向かって走り出していた。
道中、空はまだ厚い雲に覆われていたけれど、
山道を登るにつれて、少しずつ景色が変わっていく。
標高が上がるごとに霧が濃くなり、
まるで“天界への入り口”に向かっているような感覚。
階段を登り始めると、身体が勝手に動き出す。
普段なら「あと何段?」なんて数えながら登るけれど、
この日は不思議と軽かった。
体の中に流れるリズムが、自然と一致していく。
登るたびに、息の音と風の音が溶け合い、
“祈り”みたいなものに変わっていくのがわかった。
真っ白な世界の中で見えた「光」
頂上に着くころには、一面が真っ白。
何も見えない──はずなのに、
僕の中では、何かがハッキリと見えていた。
それは、「あぁ、ちゃんと届いたな」という確信。
今回の旅は、かなり無理なお願いをした。
「どうか一瞬でもいい、晴れさせてください」って。
それが、ほんのわずかな光のすき間として返ってきた。
天はいつも、僕のわがままを少しだけ叶えてくれる。
だから僕もその分、ちゃんと感謝を返したくなる。
「いつもありがとう」
自然の中でこの言葉を口にすると、
空気が一瞬ふわっと柔らかくなる気がする。
まるで「聞いてるよ」と言われているようで。
その瞬間、僕は“天と仲良し”であることを思い出した。
自然からのメッセージ:「ありのままでいい」
霧降高原で感じたのは、“頑張らなくていい”というメッセージ。
登ることも、祈ることも、願うことも、
結局は「自然の一部である自分」に戻るためのプロセスなんだと思う。
僕はこれまで、自律神経を整えるとか、
体と心をつなげることをテーマに活動してきたけれど、
結局のところ、すべては“自然とどう調和するか”なんですよね。
無理に晴れさせようとするんじゃなく、
「今の空のままで受け取る」。
それが本来の“自然体”なんだと思う。
ただ今回は──
どうしても、あの光を見たかった。
その一瞬の晴れ間をくれた天に、
僕は本気で「ありがとう」と伝えたかったんです。
天に感謝。これからも仲良くやっていこう
帰り道、霧の中をゆっくり歩きながら、
僕の心は不思議と静かだった。
まるで何かに包まれているような安心感。
「これからも仲良くやっていこうね」
そんな言葉が自然と口からこぼれた。
それは、天に対してでもあり、自分自身への言葉でもある。
自然とつながることで、僕は“人間としての芯”を取り戻せる。
心に余白ができると、
人や出来事にも優しくなれる。
結局、僕たちは自然の一部で、
天と地のあいだを生きている存在。
だからこそ、たまにはこうして天に感謝する時間が必要なんだと思う。
「ありがとう」を言葉にした瞬間、
世界が少しだけやわらかくなる。
最後に一言
霧降高原で受け取ったメッセージは、
“感謝は届く”ということ。
どんなに小さな祈りでも、
それはちゃんと空のどこかで受け取られている。
そして、その瞬間を信じて動ける自分がいるなら、
天はきっと味方してくれる。
今回も、そうやって僕の願いは叶った。
天に感謝。
そして、今日も生かされていることに、ありがとう。
人生一度きり、のびのび楽しんでいこう