なぜ私はこのテーマに惹かれたのか

先日、久しぶりに映画館で『鬼滅の刃』を観てきました。
言わずと知れた大ヒットアニメだけど、あらためて映画で観ると、やっぱり「エンタメ」って枠では語れないほど心を揺さぶられたんですよね。
特に、物語が描いている“鬼”の背景を知れば知るほど、「あぁ、これは“人と人”の物語なんだな」としみじみ思った。

小さい頃から「正義vs悪」みたいな構図が大の苦手だった私にとって、鬼滅の刃の“表層と深層のギャップ”は、とても興味深いものだった。
鬼だから悪、ではなく、「なぜその子が鬼になったのか?」という問いにこそ、本作の核心がある。

そして、これはアニメの世界だけでなく、今この瞬間の人間社会にもリンクしてくる。
「ヒトって、どうしてこんなに哀しく、そして儚い存在なんだろう?」と、気づけば目頭が熱くなっていました。


一見「鬼VS人間」に見えて、実は「人間VS人間」の物語

『鬼滅の刃』を観ていると、最初は「鬼=敵、悪、滅ぼすべき存在」という印象を持つ。
けれど物語が進むにつれて、鬼たち一人ひとりに“人間だった過去”が丁寧に描かれていく。
そのどれもが、胸をえぐられるようなほどに切なく、そして理不尽な体験の連続だ。

・親に捨てられた子
・弟を守るために命を懸けた姉
・人間社会から差別を受けた少年

彼らは元々、誰よりも「人を愛したい」と願っていた存在だった。
けれどその願いは踏みにじられ、やがて「人間への憎しみ」へと変わり、鬼となって人を襲う。

これ、ただのフィクションだと思います?

でも現実社会でも、似たようなことが起きているとおもいません?
学校でのいじめ、家庭内での虐待、社会の中での排除。
その痛みを心の中で抱えきれず、誰かを傷つけてしまう人がいる。

鬼滅の刃の世界は、決して“非現実”なんかじゃない。
むしろ、あまりにも“人間”の現実を映しているように感じますね


競争も本能、でも「愛」もまた本能

ヒトには、本能として「競争する」性質があると思う。
生き残るために、強くなるために、他者と比べて優位に立とうとする。
それはある意味、生き物として当然のことです。

でもその一方で、ヒトにはもうひとつの本能がある。
それが「愛する」ということ。

誰かの手を握っていたい。
誰かの幸せを願いたい。
誰かと一緒に、心のぬくもりを感じたい。

その“あたたかい本能”があるからこそ、私たちは鬼滅の刃を観て泣いてしまうんだと思う。
悲しみに共鳴し、誰かの過去に思いを馳せ、「苦しかったね」と、心の奥で呟いてしまう。

だから私は思うんです。

「競争だけじゃない。
 本当は、愛し合う力の方がずっと大きいんじゃないか」って。


自分を愛することが、すべての出発点になる

鬼になった子たちは、誰よりも人に愛されたかった。
でもそれが叶わず、自分をも見捨ててしまった。
その痛みが、鬼という形で暴れ出したように感じる。

でももし、誰かがそっと寄り添い、
「あなたはそのままでいいよ」って伝えてくれていたら。
「一緒に生きよう」と抱きしめてくれていたら。
きっと鬼にはならなかったと思う。

ここで私たちにできることって何だろう?

まずは、自分自身を愛してあげることじゃないだろうか。
自分を責めすぎず、無理に他人と比べず、
心の中の小さな自分に「よくがんばってるね」って声をかけてあげる。

自分を大切にできた人は、他人にも優しくできる。
自分の国、自分の種族、自分の文化を愛せる人は、
他の国や文化にも敬意を持って接することができる。

そうやって、小さな優しさの連鎖が始まっていけば、
「鬼を倒す世界」じゃなく、「鬼を生まない世界」に近づけるんじゃないかなって思います。


私からの一言──「愛の本能」を信じてみて

『鬼滅の刃』を観た帰り道、私はひとり、夜風に吹かれながらこう思った。
「人って本当に哀しい。でも、同じくらい愛おしい」って。

過去の傷に囚われて、誰かを傷つけてしまうこともある。
でもそれも、人間の弱さゆえのこと。

それでも、ヒトには「愛したい」という本能がある。
だから私は、自分にも、あなたにも、こう伝えたい。

「まずは自分を愛してあげて」
「あなたはそのままで価値があるよ」
「傷を抱えたままでも、生きていていいよ」

そして、もし余裕が出てきたら、
となりにいる誰かの手を、そっと握ってみてほしい。
きっとその一歩が、愛に包まれる世界への入り口になるから。

みんなでやさしい世界を作れますように。

人生一度きり、楽しんでいきましょ!!