なぜか最近、ヒト族の歴史に惹かれてる。

こんにちは^^のびおです

ここ最近、やたらと「ホモサピエンス」と「ネアンデルタール人」の話に惹かれるようになったんですよね。

別に昔から歴史マニアってわけでもないし、理系の考古学畑の人間でもない。でも、なんかこう…「私たちはどこから来て、なぜ今ここにいるのか?」って問いが、妙にリアルに迫ってくる感覚があるというか。

きっかけは、あるドキュメンタリーを観たことだった。
ホモサピエンスとネアンデルタール人は、約4万年前まで共存していたという。そして今、地球上に残っているのは私たちホモサピエンスだけ。

「なぜ彼らは滅びて、私たちは生き残ったのか?」

この問いがずっと心に引っかかって、気づけば本を読んだり論文をあさったりしていた。

そして、ふと思ったんですよね。
この違いって、現代人が抱えている“生きづらさ”や“自律神経の乱れ”とも、どこかでつながっているんじゃないか?って。

今日は、そんなことをちょっとだけ深掘りしてみようと思う。


ネアンデルタール人とホモサピエンスの違いって?

まず大前提として、ネアンデルタール人は決して“劣った種”ではなかった。

脳の容量はむしろホモサピエンスより大きかったし、狩猟技術や火の使用、道具の工夫、死者を弔う文化さえあった。身体もがっしりしていて、寒冷地にも強かったと言われてる。

じゃあ、なぜ彼らは絶滅してしまったのか?

いくつかの有力な説がある中で、私が興味を惹かれたのは「環境への適応力の違い」っていう視点。

たとえば、ホモサピエンスは少人数のグループで柔軟に移動しながら生活していたのに対し、ネアンデルタール人はわりと定住的な暮らし方だったとか。

気候変動や生態系の変化が起きたとき、臨機応変に動けたのはホモサピエンスの方だったんだろう。
つまり、「状況に合わせて自分を変化させる能力」こそが、生き延びる力だったとも言える。


現代人の“脳”にも受け継がれたもの

面白いことに、ホモサピエンスの脳って、「現状維持」を好むようにプログラムされてるって言われてるんです。

危険を避けるために、変化よりも安定を選ぶ。それはつまり、“命を守るため”に最適化された思考パターン。
「このままで大丈夫かな?」って不安に思ったり、「失敗したらどうしよう」って考えちゃうのも、本来はサバイバルに役立つ機能だったんだと思う。

だけど、それが現代のように情報が溢れていて、刺激過多な社会になるとどうなるか?

脳はずーっと興奮モード、つまり交感神経優位になりやすくなる。

「なんとなくずっと緊張してる」
「深く眠れない」
「常に考えすぎてる」

こういう感覚を抱えている人、私の周りにも本当に多いです。

これって、もしかしたら“サバイバル脳の暴走”なのかもしれないって最近思うようになったんですね。


もっと「人本来の感覚」に従っていい

ホモサピエンスは変化に適応する能力に長けていた。それは事実。
でももうひとつ、彼らが持っていたであろう力って、「感覚に素直であること」じゃないかとも思う。

お腹が空いたら食べる。
疲れたら眠る。
不安を感じたら群れで寄り添う。

そこには、無理に“がんばる”とか、“ちゃんとしなきゃ”みたいな強迫観念はなかったと思うんです。

ところが現代では、
「食べたら太るから我慢しなきゃ」
「休んだら置いていかれるかも」
「不安でも笑顔でいなきゃ」

…みたいに、感覚よりも“思考”が優先される社会になってしまった。

だけど本来、私たちの身体ってものすごく優秀。
体温を調節してくれるし、ウイルスが入れば免疫反応が起きるし、ストレスがかかれば涙まで出してくれる。

この“身体の声”をもっと信じて、耳を傾けてもいいんじゃないかなって思う。


最後に、のびおからの一言。

ホモサピエンスが生き残ったのは、環境に合わせてしなやかに変われたから。
でもその“柔軟さ”って、何も「考え抜く力」だけじゃなくて、「感じて動く力」でもあったと思う。

自律神経が乱れてしまう現代社会で、私たちができることって、
実はもっとシンプルかもしれない。

考えすぎてしまうなら、考えなくても大丈夫な時間を意図的につくる。
うまくいかない日があっても、「まあ、今日はそういう日だった」って流してみる。

それって、ホモサピエンスが受け継いできた“生きる知恵”でもある気がしてならない。

だから今日も、深呼吸をひとつして、自分の身体に問いかけてみてほしい。

「ねえ、今、ほんとはどう感じてる?」

そんな問いかけから、人生は少しずつ、しなやかに変わっていくと思うんだ。

皆さんが少しでものびのびした生き方ができますように。

人生一度きり、楽しんでいきましょ!