なぜ「壁」という言葉に惹かれたのか

「また壁にぶつかったな…」
そんなふうに思う瞬間、僕の中で“壁”という言葉はいつも「乗り越えるもの」だと刷り込まれてきた。
努力して、高く飛んで、力で突破していく。そんなイメージ。

でも最近になって、その考え方に少し違和感を感じていた。
どれだけ頑張っても前に進めない時、もしかしたら「壁」そのものの見方を間違えているんじゃないか、と。

そんな時に、ふと足を運んだのが山形県にある「瓜割石庭公園」だった。
ここは、石が削られてできた巨大な断面がむき出しになっていて、まるで日本のグランドキャニオン
のような迫力。
最初の数分は、ただただその「高さ」に圧倒されていた。
首が痛くなるほど上を見上げながら、心の中で「うわぁ…これが“壁”か」とつぶやいた。

けれど、しばらくその場に立っていると、不思議と心の奥から声が聞こえた。
「――君なら、この壁をどう乗り越える?」

上ばかり見ている自分に気づいた瞬間

ハッとした。
気づけば僕は、ずっと上ばかりを見上げていた。

「どうしたら登れるか」「どんなルートを通ればいいか」――そんなことばかり考えていた。
でも、その瞬間ふと視線を下に向けてみた。足元を見つめ、地面に触れ、壁の根元を観察してみた。

すると、今まで見えなかった“道”が見えてきたんだ。
崩れた石、雨水の流れ跡、苔がついた部分。
まるで壁そのものが「僕にも限界があるんだよ」と語りかけてくるようだった。

その時、直感的にわかった。
「壁」は必ずしも“上から越えるもの”じゃない。
根元を理解し、時間をかけて観察すれば、“崩す”こともできる。
そして時には、風や水のように、自然に削れていくのを待つという選択肢もある。

それを悟った瞬間、僕の中の「壁=高さで乗り越えるもの」という思い込みが、すっと溶けていった。

壁の正体は「思い込み」だった

僕たちは何かに挑戦する時、「高い壁」という言葉をよく使う。
でも本当は、壁の高さを決めているのは自分自身なんだと思う。

人間関係、仕事、健康、夢への挑戦――どんな場面でも、
「無理だ」「届かない」「まだ早い」と思っているのは、結局自分。

瓜割石庭公園で感じた“圧倒的な高さ”は、実は僕の内側が作り出したものだった。
現実の壁はただそこにあるだけで、僕の心が勝手に「高い」と判断していた。

そしてもう一つ気づいたのは、
壁は乗り越えるために現れるのではなく、観察するために現れるということ。

その存在が教えてくれるのは、「焦らなくていい」「まず足元を見ろ」というメッセージ。
登るかどうかを決める前に、
「この壁は何でできているのか」「どんな歴史を持っているのか」を見つめることが大切なんだ。

壁を“崩す”という発想のススメ

壁を崩すという発想を持つようになってから、
僕の日常も少しずつ変わっていった。

たとえば、仕事でうまくいかない時。
「どうすれば上司を納得させられるか」ではなく、
「そもそも何を誤解されているんだろう?」と考えるようになった。

人間関係でぶつかった時も、
「なんでわかってくれないんだ!」と感情的になる前に、
「相手の土台(価値観)はどこにあるんだろう?」と見つめてみる。

つまり、根元を理解することが、壁を“崩す”第一歩。
それができるようになると、不思議と壁は“ただの風景”に変わっていく。

瓜割石庭公園の石壁も、初めは威圧的だったけれど、
観察していくうちに、どこか優しさを感じた。
削られ、削られ、何十年も風雨にさらされながら、
それでも立ち続ける姿に「強さとは柔らかさだ」と教えられた気がした。

まとめ:壁の乗り越え方は、一つじゃない

あの場所で感じたことを今でもよく思い出す。

僕たちはつい「上に行く」「越える」「頑張る」という方向に意識が向きがちだけど、
実は“下を見つめる”“根を理解する”というアプローチこそ、
本当の意味で壁を越える方法なのかもしれない。

高さで勝負しなくていい。
比べなくていい。
焦らなくていい。

壁を敵にしなくてもいいんだ。
壁は、君を止めているのではなく、君に“観察の時間”をくれている。

瓜割石庭公園で感じたあの静けさと高さは、
「立ち止まっていい」「地に足をつけて見つめ直せ」という
優しいメッセージそのものだった。

僕からの一言

もし今、何かの“壁”の前で立ち止まっている人がいるなら――
上を見上げる前に、少し下を見てみてほしい。

そこに、今まで気づかなかった“崩せるヒント”が眠っているかもしれない。
そしてその瞬間、壁はもう“敵”ではなくなる。

人生一度きり、楽しんでいこう。